柳生左門友矩――
酷く懐かしい名だ。ふ、と耳に入ったその名に瞑っていた眸を開けて視線をやれば、虹さんこと漆戸虹七郎と鉄斎老が盃を傾けながら談義をしていた。
「何の話してんの?」
問えば、虹さんはまるで「いたのか」と言うような眸を俺に向けて、短く「当代一の剣士は誰であるか、だ」と言った。
当代一の剣士ねえ。
「虹さんじゃねえの?」
「見え透いた世辞などやめろ」
ふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らして顔を背けられてしまった。別に世辞言ったわけじゃなかったんだけど。肩を竦める俺を無視して、虹さんは「で、左門友矩だったか」と鉄斎老に問い返した。
「尾張の兵庫助利厳も強いと聞くが」
「しかし柳生といえば柳生十兵衛三厳だろう」
ずらずらと二人の口から出てくる、良く知った名に俺はこっそりと顔を顰める。話を振られでもしたら敵わない。さっさと寝たふりでも何でもして、二人の視界から消えてしまおうとごろりと寝返りを打って二人に背を向ければ、虹さんが「おい、」と俺を呼んだ。
なんつー間の悪い。
内心で舌打ちしながら、俺はくるりと顔だけを虹さんと鉄斎老に向ける。
「貴様は誰だと思う」
「何が」
「だから、柳生一の剣士は誰だと思う、と訊いておるのだ」
議論の内容、さっきと変わってるじゃねえかよ。
一番触れられたくない話題に、あからさまに顔をしかめる俺に、虹さんは何を勘違いしたのか呆れ顔をして「どうせ貴様のことだから、『俺が一番強い』とでも言いたいのだろう?念のために言っておくが、俺は柳生で誰が一番強いと思うかを訊いているのであって、貴様の自賛など聞きたくはないからな」そう、長々と念を押してくれた。
全くご丁寧なこった。っていうか虹さんは俺をどういう目でみてんだ。
言っとくけど俺は自賛なんてしたことねえよ。だって全部ほんとのことだもん。強いし男前だしよく女に袖引かれるし。あ、こういうのを自賛っていうのか。虹さん、俺また一つ賢くなったよ。
「うーん」と唸って考えるふりをしながら、適当に「又十郎宗冬とかどう?」と言えば、虹さんはご自慢の長刀の鞘で俺の頭を殴った。
「ちょ、虹さん!首から上は駄目だって言ってるだろいつも!」
「そう言われると意地でも首から上を狙ってやりたいと思うのが人間の性というものだ」
「ていうか何で殴るんだよ!俺、真面目に答えてんだけど!」
言っておくけどなぁ、又十郎だって強いぜ、あいつ、剣術嫌いだから滅多刀抜かねえけど、俺や兄貴よりよっぽど容赦とかしねえし。
言いかけて、俺は口を噤んだ。
「じゃあさ、虹さんは誰だと思うのさ」
「・・・・・・才だけであれば十兵衛を凌ぐという、友矩――」
虹七郎の刀を持つ手がぴくりと震えた。
まるで人を斬りたくて仕方が無いという、そんな衝動を抑えているかのようだった。俺は小さく笑う。苦さが勝るのは、虹七郎が恐らくはその「柳生友矩」と斬り合うことを望んでいるのだろうことを感じとってしまったからだ。
ついでに俺は、それが不可能でもあり可能でもあることを知っている。
「けど、当代でというなら柳生友矩は入らないさ。何せ柳生の庄で病死したって言うからね。佳人薄命ってやつさ」
そう。
柳生友矩は死んだ。
故郷柳生の庄で――表向きには――病で死んだ。実しやかに流れる噂では、同じ柳生の手にかかって殺されたとも言われている。それも表向きの話だ。誰もが裏だと信じて疑わない、表の話。だって俺は生きている。柳生友矩は死んだけれど、俺は、は生きている。こうしてここにいる。
――柳生友矩は将軍様の寵愛を受けすぎた。
――尻一つで四万石とは、なんともまあ羨ましいことよ。
――宗矩殿も御息子殿が取り立てられてさぞや、鼻が高かろう。
(くっだらねえ)
不意に蘇った記憶を、心臓ごと握りつぶしてしまいたい気分になりながら、口の中で吐き捨てる。くだらない。全くくだらない。
「虹さん、柳生友矩は死んだんだよ」
「何度も言わずとも、判っている」
虹七郎の言葉に俺は安堵して息を吐く。判っていないのならいい。俺はまだここに居ることが、できる。
「だよな。ま、柳生なんて時化た一族の話題なんてやめろよ」
「、貴様が柳生嫌いだとは初耳だな」
怪訝そうな顔をする、虹七郎に俺はゆるく笑った。
「柳生が嫌いっていうか、俺、男は基本的に皆嫌いだからさ」
「あ、けど虹さんや鉄斎老は嫌いじゃないぜ。ま、勿論一番はおゆらちゃんだけどね」と、茶化す俺の額を虹さんはもう一度長刀の鞘でがつりと小突いた。
(だ、だから顔はやめろって何度も言ってんだろうが・・・!!)
END